母へ その3

 
<母へ・・・最後のありがとう>



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そして、夫が70歳のとき、難病、腹部大動脈瘤の人工血管置換手術で静岡済生会病院に入院、そのあいだ中、欠かさず病室に泊まり続け、長男のアパートで1ヶ月の療養をへて、田舎に戻った。

 女10人、男2人の12人の姉妹兄弟には、この間様々な物語があった。

小林家二女として相談を受ける立場にあった政代は、様々な場面でその存在が重宝がられた。
 10人の女姉妹は、政代以外は、舅姑のいる家に嫁いだ。
 「マーねーちゃんはいいなあ、ひとりで好きなことができるから。うらやましいなあ。」これが、姉妹の嘘偽りない言葉であった。
 
なぜ、政代だけ、そのような結婚をさせたのか。その親、古武士然とした小林孟郎は昭和49年に亡くなっており、その真実はわからないが、小林家の跡取りのための婿さん要員だったという話も聞こえる。

 子供を結婚させた、気田での夫婦の生活は平和だった。
7人の孫をもち、近くに嫁いだ長女の孫を見るのが何よりの楽しみだった。

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 「最近は、お父さんと一緒に手をつないで寝るのよ」と政代。

 そして、平成元年8月5日(土)早朝、突然 自宅で 夫 太三男が逝った。静脈からの出血多量で眠るように黄泉の国に旅立ってしまった。享年74歳。突然の出来事に茫然自失しつつも、否応なしに一人暮らしが始まる。

 1周忌、3周忌とときが過ぎるにつれて、今まで失ってきたものを取り返そうと、短歌の創作、フォークダンスクラブ、そして老人クラブ活動を精力的にこなしていく。

 短歌では、県内各市町村から集められた歌集・平成9年の「しずおか平成万葉集」(静岡新聞社刊)に掲載された。

 <瀬におどる若鮎の影眼に追ひつ解禁近し亡き夫想う>130頁


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 老人クラブ活動では、平成11年1月13日、(財)静岡県老人クラブ連合会主催の「ときめきセンスアップ21」ファッションショー・リフォーム作品の部で、洋裁の腕とデザインセンスを発揮した作品が最優秀賞を獲得。新聞紙上で得意顔だった。

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 また、“生涯青春”一番楽しんだフォークダンスクラブ(FDはるの)では130人の部員のリーダー的存在として、衣装合わせや浜松からの指導者との仲立ちなどを楽しげにこなし、レース付きの可愛いお姫様模様で、軽快に踊る姿に「自転車も乗れなかったのに、こんなに軽快だったのか」と子供たちを驚かせた。

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もともと、ファッションには一言あった政代の面目躍如の感がある。
やや薄紫のメガネをかけ、髪を紫に染めたりと、年齢を重ねるごとにおしゃれにはうるさくなっていった。

 元気にウオーキングし、さっそうと買い物に歩く姿に杖などは不要で周囲の同年代の人たちが感心していたという。

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 80歳を過ぎた頃から少しづつ疲れがたまり始めるものの、自宅の畑では、汗だくになって、鍬をふるい、大根、じゃがいも、ネギ、なす、きゅうり、とうもろこしなどの野菜を自家栽培、たまに帰省する子供たちに食べさせたり、お土産に持たせたりもした。

 夫の墓にも、こまめに歩いて通い続けた。また、ひとりで浜松までバスで出かけていくのも楽しみのひとつだった。
老人会や仲間と国内各地の旅行も楽しみの一つでもあった。
 
 ちょっぴりお酒を飲み、笑い合い・・・そんな日々だった。

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1998年のころ

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傷痍軍人会では神戸に

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夫と子供のために影になって支えてきた人生から一転して自分の好きなことを好きな時間にできる・・・それが楽しみであったし、人一倍健康体であったことが幸いした。

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 一度も入院したこともなく、大病を患ったこともなかった身だが、平成18年12月、85歳。
 風邪気味で1週間調子が悪く、主治医に出かけたところから人生が一変する。

 医師は、「これはすぐに大きな病院だ」駆けつけた長女に先生は伝えた。

 そして天竜病院に、「肺が真っ白です。余談は許されません」肺炎で緊急入院。
 
 そして入院して3日目の深夜、ベッドから落ち・・・・意識が混濁。わけのわからないことを言う場面。
「急性認知症?」。
開けて翌日当直医のレントゲン検査結果は「脳挫傷」。
救急車で西部医療センターに運ばれ転院。
 
脳外科の治療を受け、開けて1月、長男の住む藤枝市民病院に転院。
 
 そして静稜リハビリ病院を経て、平成19年7月から藤枝市の長男宅に身を寄せる。

 はじめは一人でたつことができなかった体であったが、懸命のリハビリ訓練の結果、介護度・要支援1で退院。

しかし、脳挫傷の後遺症で左半身が不自由になり、杖の助けが必要となる。

 知り合いがいない土地、地理も不案内の土地、昼間は長男夫婦が働きに出ている家にあっては、気軽に一人で出歩くこともできない。

 いきおい、与えられた8畳が自分の生活空間すべて。
 もともと読書好きなこともあって、長男が買ってきてくれる小説はのめり込むように読みふける。
 
 そして、デイサービスセンター通い。
 デイサービスでは他の利用者のお手伝いをすることもあった。

 しかし、これまでの趣味「短歌創作」は全く影を潜める。
 また、積極的に生きようとする姿がどんどんなくなってくる。
 
 こうしたなか、精神的なこともあってか、体もますますいうことを効かなくなって介護度1に進行。
 
 「もう十分生きてきたからいいよ」という言葉が口から出始める。

 デイサービスに通うことも次第に面倒くさくなっていく。
だんだん昔の知り合いや兄弟とも会うことを拒否
。自分の世界に閉じこもり始め、笑が消えていく。
姉を亡くし、妹の半田、飯田、そして最も愛していたかもしれない裕子を亡くし、生きていく自分に疑問を感じていたかもしれない。

 2011年2月9日、フォレスタ藤枝にロングステイ。
長男の娘が3月12日に結婚するため、その準備で政代の使っている部屋が必要になったためと結婚式の準備などで忙しくなるための期間3ヶ月の予定だった。
 
 そして、運命の3月11日の大震災。

 孫の結婚式が伸び、そのためにロングステイの期間も伸びていった。
 施設では個室利用であったことが、かえって引きこもりの度合いを高めたようだ。
 
 感情が消えていく。
 

 1階から2階へ、そして3階へと、介護度が増すごとにフロアーが変更となる。

 長男夫婦は、毎週水曜日と日曜日に洗濯物のために訪れるが会話は少なくなっていく。
 兄弟姉妹と顔を合わせることも嫌がることも。
 自分の衰えた姿を見せたくなかったのかもしれない。
 それとともに、食欲が減退。飲食を拒否するようにやった。
 嚥下機能の衰えからか、のどにつかえるものを気にするようにはなっていたが、それが益々ひどくなっていく。

 施設からも、なんとか食欲を取り戻させたいという連絡が頻繁にはいることに。

 そして、平成24年9月30日、早朝。施設から長男のもとへ「お母さんが痙攣を起こしています。今から救急車で病院に向かいます」との電話。

 先行した長男が待ち受ける病院で救急車から出された姿は、体全体を痙攣させたものであった。
 診断は、喉に痰がからんで、低酸素によるものではないかということで入院。
もちろん本人の意識はない。

 「もしかするとそのまま意識が戻らなくて植物人間になるおそれが」という見方も。

 駆けつけた親族の前で2日間眠ったままの状態が続いたが、奇跡のごとく長女が看護していたときに眼を開けて、周囲を確認する表情が・・・が、記憶が喪失。
 自分の名前や息子や娘も認識できない。
 昔の写真を見せたり、昔話をしたり、記憶を取り戻させるべく周囲は働きかける。と、次第に昔の記憶が思い起こされてきた。
 
 はじめは、自分の子供の幼少の頃の思い出、そして名前・・・しかし、目の前の大人になった子供とは一致しない。

 夫の名前、そして思い出・・・薄皮をはがすように記憶がつながり、2週間くらいで元に戻ることに。
 これも意志の強さか・・・と。

 そして、意識が戻るとともに生き生きしてきて笑顔を見せるようになる。
 食欲も旺盛になり、これまでの食事拒否が嘘のようだ。
 
しかし、低酸素脳症の後遺症のために今度は右半身が効かなくなったものの、2週間経った頃、急性期は脱して現状に回復したからと、病院から退院の指示。

しかし、老人施設では受け入れ枠がいっぱいとやんわり断られ、かといって自宅にも戻れず、市民病院のケアワーカーの尽力によって、長期療養型の「誠和藤枝病院」への転院が決まった。

10月19日、転院。

葉梨の山里にあるしっとり落ち着いた老人病院では、手厚い看護で精神的にも落ち着いた。

ただ、昔のようには動けずにベッド生活が続く。

 11月25日、朝食で誤嚥。
 軽い肺炎状態で、酸素吸入と点滴の生活に入る。

 主治医の判断は、体力が少なくなっており、いつ急変するかもしれないので覚悟を、というものであった。
左手だけがわずかに動き、寝返りも打てない状況になりつつも、年を越して2013年。

中心静脈点滴の栄養補給だけで一切飲食物を採れなくなった生活。
それでもベッド際に立つと「ありがとう」の言葉と、「いると気になるから早く帰れ」との気丈な言葉、生涯その言葉が口癖だったのか。

 8ヶ月たった7月20日の土曜日、午後4時に長男が病院に訪れたとき、なにか表情が弱々しく、握り返した手の力も、サヨナラの時に振る左手のちからも弱かったようだった。
 後ろ髪を引かれるような、なにか気になる印象だった。

 7月21日・日曜日、午前9時半。携帯電話が鳴る。

 「道明か、おばあちゃんがおかしいぞ。早く来い」、政代の弟、小林猛司からの連絡。
 そして、病院に向かう途中再度の電話。「ダメだ、逝った」。

 
 なぜか、政代の実弟猛司、彰が朝早く病院に行った。まるで虫が知らせたかのようだ。
 
 最後は、眠るように逝った。
 
91歳と8ヶ月。
 
大正、昭和そして平成と3時代を生きた激動の人生の終点だ。

 気丈で、ちょっとおしゃれでプライドが強くて、男勝りの“政代”、しかし時にはかなり神経質な面も持ち合わせた彼女は、最後には人生を自ら総括することなく何も言わずに逝った。

いろんな想いを胸に抱きながら。

「ありがとう」の人生は、終わった。

あとは、25年前に分かれた太三男と手をつないで仲良く、明るく、暮らしていくだろう。

お疲れ様、そしてありがとう!

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